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9 原のや


天地人 長谷堂城の戦い
 豊臣秀吉の死後,天下をねらう徳川家康は慶長五年(1600)四月,会津の上杉家に謀反の疑いがあるとして,釈明のため上洛せよとの詰問状を送りつけました。しかし,景勝の意を受けて直江兼続は,それに強く反論する返書(直江状)を出しました。
 同年六月二日,家康は伏見城で全国の諸将に上杉討伐を命じ,自身も江戸を経由して,七月二十四日下野(栃木県)の小山に布陣しました。
 家康の留守を機に,石田三成は家康討伐の兵を挙げましたが,これは家康の謀略でした。家康は直ちに大軍を西下させ,九月十五日の関ケ原合戦で三成の西軍に勝利しました。
 景勝と兼続は三成に呼応して東北で決起し,出羽(山形県)の最上義光制圧のため長谷堂城を攻めましたが,九月二十九日関ケ原の敗戦が伝わり,苦戦の末米沢に撤退しました。